ヒマだしワインのむ。|ワインブログ

年間500種類くらいワインを飲むワインブロガーのブログです。できる限り一次情報を。ワインと造り手に敬意を持って。

南アフリカワインはいかにして日本に根付いたか。仕掛け人にインタビュー!

南アフリカワインはいかにして日本で市民権を得たのか

「安くておいしい」という評価が不動のものとなっている南アフリカワイン。南アフリカワインがこれだけ人気を博している背景には、それを日本に紹介した人々の地道な努力がある。まさにそういった人の一人、南アフリカワインの第一人者である株式会社マスダのバイヤー・三宅司さんにインタビューしてきた。

himawine.hatenablog.com「なぜ南アフリカだったのか?」から語り起こしてもらった話はめちゃくちゃ興味深い内容だったのだった。さっそくいってみよう。(※三宅さんは関西弁でお話ししてくれていますが、私は関西弁話者でなく、正確にニュアンスが出せないので標準語ナイズドしています)

 

アメリカの大学院に合格していた若者が南アフリカに行った理由

ヒマワイン(以下、ヒマ):今日はよろしくお願いします。まず、南アフリカに興味を持ったところから聞かせてください。

三宅さん(以下、三宅):町おこしとか村おこしとか、デベロップメントと言われる仕事に10代の頃から興味があったんです。日本で大学を出たあとに、アメリカの大学で学ぼうと思ってアメリカの大学院を受験。ふたつの大学から合格をもらいました。

ヒマ:南アフリカじゃなくてアメリカだったんですね。

三宅:そんな矢先に、南アフリカの女性が南アフリカの黒人の子どもたちを連れてくる交流イベントのお手伝いをすることになったんです。1995年、南アフリカ民主化されて1年後のことです。

himawine.hatenablog.com

ヒマ:その時代に白人女性が黒人の子どもを連れて来日って、すごく画期的な気がします。

三宅:その女性は気合の入った人でね。アパルトヘイトの時代から、「アパルトヘイトはおかしい!」と声を挙げていた人で、黒人居住区で先生をしていたんです。黒人居住区が勤務地だとクルマの保険料が一気に高くなる、そんな環境です。その先生とお酒を飲んでいたら「アメリカに行くより、南アフリカに来たほうがいい」と言われた。それで南アフリカケープタウン大学教育学部に進むことにしたんです。

ヒマ:うーん、行動力がすごい。

三宅:デベロップメントの仕事をする上で教育が大事だと思いましたしね。学生で仕事経験もなく、仕事作りができるわけじゃない。なので、がんばって学校生活を送りました。

 

ポール・クルーヴァーとの出会い。南アフリカ1999

ヒマ:そこからどのようにしてワインと出会うのでしょう?

三宅:99年2月のことですね。ポール・クルーヴァーやニュー・ビギニングスといった生産者の取り組みを知る機会があったんです。

ヒマ:取り組みというと?

三宅:ポール・クルーヴァーがいち早くはじめたのですが、労働者にチャンスを、という取り組みです。黒人労働者にワイン造りを教えたりしはじめたんです。ニュービギニングスは、98年に生まれた南ア史上初の黒人が生産したワインです。

三宅さんはポール・クルーヴァーのバッグを携えて営業活動に勤しんでいる

ヒマ:教育とか開発とか、三宅さんのテーマと重なるような取り組みをしている生産者が南アフリカにいたと。

三宅:まさに、デベロップメントへの興味にビビッときたんです。ワインは素人として飲んでいただけでしたが、さっそくポール・クルーヴァーに見学に行きました。そしてこのワインを輸入したら飲む人も作る人もハッピーだなと思って、輸入させてもらうことにしたんです。

ヒマ:やっぱり行動力がすごい(笑)。でも日本人の学生がきて「輸入させて欲しい」って、失礼ながらよくオッケーがもらえましたね。

三宅:時代ですね。南アフリカにはKWVという協同組合がありますが、これは日本でいう農協のような組織で、各ワイナリーはKWVを通じてワインを流通させていたんです。そのKWVが97年に民営化されたため、生産者が自由に取引できるようになった。それは一方で、ポール・クルーヴァーもそうでしたが、「自分たちで売り先を探さなくちゃいけない」ということでもあったんです。

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ヒマ:国営企業の民営化のタイミングだったとは……。日本はワインの大きな市場ですし、ケープタウン大学の学生なら信頼度もあったはず。だからこそ、取引が可能だったわけですね。しかしすごい時代に飛び込みましたね。

三宅:すべて偶然なのですが、あとから考えると明治維新のまっただなかの日本に行ったようなものだったと思います。ものすごくいいタイミングでしたし、大きな流れのなかに入っていくことができました。

 

学生を終えて即起業。そして株式会社マスダへ

ヒマ:ともあれ、学生が終わってすぐに南アフリカワインの輸入をはじめたというわけですか?

三宅:そうですね。幸いなことに、雑誌のAERAに載せてもらい、新聞にも載って、最初に輸入した6000本は一瞬でなくなりました。野球でいえば初回に2連続で満塁ホームランが出たようなものでしたね(笑)。しかし、それからはサッパリ。自分の給料の出ない状態が1年半続きました。

ヒマ:給料の出ない状態が1年半……!(絶句)

三宅:ほんまに大変でした。結果的にはボランティアで、にっちもさっちもおカネが残らない。それで、事業を小さな卸しの会社に売却。そこが株式会社マスダと合併して、私もマスダの社員となり、今に至ります。

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ヒマ:なるほど! 失礼ながら三宅さんにはあまりサラリーマン感がないと思っていたのですが(笑)、そういった経緯だったんですね。元は一国一城のあるじだった。

三宅:南アフリカワイン事業は、もちろん会社から稟議書にハンコを押してもらって進めている事業なのですが、もともとマスダに南アフリカ事業があったわけじゃありませんでしたから、失敗できないというプレッシャーはすごくありました。サラリーマンだけど、この事業は失敗させられないっていう意味では社長みたいな気分でしたし、事業のスタート当初は「失敗したら借金してでも自分で買い取らなアカン」と思っていました。会社を代表して商品を引っ張ってくるわけですからね。

ヒマ:バイヤーというお仕事は華やかなイメージもありますが、実際はプレッシャーもキツいわけですね。

三宅:今でこそバイヤーもふたりになり、プレッシャーも半分になりましたが、20年前は南アフリカワインの知名度が今に比べてもはるかに低い時代です。ソムリエの人でも「南アフリカでワインつくってるんですか!?」と驚かれる時代でした。

ヒマ:今でも我々モノ好きな愛好家は知っていても、一般の人の認識はそうだったりしますもんね。

三宅:だからこそ、将棋でいえば飛車角クラスの駒でないと競争相手を倒すことはできませんでした。私はバイヤーであり営業でもあったことで大きな失敗がなかったのかもしれませんね。バイヤーと営業の間の溝があるとなかなか難しいですから。

ヒマ:今日も「ポール・クルーヴァー」のバッグにワインを6本入れてらっしゃいますし、インタビュー場所の焼肉屋さん、六本木の「みやび」も三宅さんのお客様なんですよね。みやびさん、ワインリストがすべて南アフリカワインというすさまじいお店です。

焼肉店「みやび」にズラリ並んだ南アワイン。選んだのは三宅さんだ。

三宅:みやびさんは南アフリカでシェフをされていた方が帰国して開業された焼肉店。現地で飲んだワインに感銘を受けたそうで、ワインは南アフリカのものをとマスダに問い合わせをいただいたんです。このお店のワインはすべて私が選ばせてもらっています。

ヒマ:もちろんご苦労もすごくあるとは思うのですが、充実したお仕事をされているように思います。

三宅:小さなころから外国と仕事したい、誰かがやったことのない事業をやってみたい、そして開発の仕事をしたいと思っていて、今はそれが全部できているなあと思いますね。営業の仕事でいえば、20数年やってきて、私はスーパー営業マンでもなんでもありませんが、トランプでいえば強いカードが手元に揃ってはいます。だから僕自身の腕前に関わらず、そんなに負けることはないと思っています。

 

ワインと社会貢献とハーテンバーグと「ペブルスプロジェクト」

ヒマ:たしかに。今日いただいたワインもどれもすごくおいしいです。

三宅:南アフリカにワインがあること自体が知られていなかった時代から、オセロを一枚ずつひっくり返してきたのが僕の仕事。全面が黒な上にオセロがボンドでくっついてるんじゃないかっていうお店もありましたが、少しずつ白に変えていっています。今52歳で、あと仕事をするのはひとまず8年弱。残りの8年も、オセロを変える作業を続けていこうと思っています。

ヒマ:その三宅さんのお仕事が結果的には南アフリカワイン産業の振興とか、社会貢献につながるわけですもんね。

三宅:はい。ぜひ知っていただきたいんですが、ハーテンバーグという生産者がペブルスプロジェクトというNGOを支援していまして、2022年の12月までハーテンバーグのワインを買っていただくと1本あたり一定の金額が寄付されるんです。南アフリカの小学校は2月入学なのですが、寄付されたお金は新小学生の制服やカバンや教材を買うお金に充てられます。

ヒマ:飲むだけで寄付できるっていうのはいいですね。

ハーテンバーグのワインを買うとポストカードがついてくる。飲むだけでできる教育支援だ。

三宅:ペブルスプロジェクトは、もともとアルコールの影響を受けた子どもたちのためのプロジェクトなんです。南アフリカにはアパルトヘイトの時代にワイナリーの生産者への賃金をワインで支払う「ドップ・システム」という悪習があったのですが、結果的にアルコール中毒患者が増え、女性が妊娠してもアルコール摂取が止められないことで胎児性アルコール・スペクトラム障害という病気にかかる子どもが世界で一番多いと言われていて、今もそれは変わっていません。ペブルス自体はいまはその病気の子ども以外の子どもも支援していますが、そういった子どもたちへの教育支援を行なっているNGOなんです。これはぜひ知っていただきたいです。

ヒマ:「知っていただきたい」のが商品である前に寄付プログラムっていうのが三宅さんらしいです。と、いろいろお話をうかがっていたら長くなってしまったので、肝心のワインの話は記事を分けさせてください!

 

南アフリカワインに思いを馳せる

というわけで三宅さんの半生についてのお話をうかがった。三宅さんの体験談は聞くだけで南アフリカワインへの理解度・解像度が高まる内容。「開発の仕事がしたい!」という10代の若者の夢は、南アフリカ民主化という大きな時代の波に乗り、日本に南アフリカワインを紹介するという仕事へと結実した。

目の前にある南アフリカワインのボトル。このワインが日本に来るまでにはさまざまな人の、国のドラマがある。そう考えるとおいしさもひとしお。次回は、このボトルの「中身」についてさらに詳しくお話を聞いていく予定だ。

みんなで飲もう、ハーテンバーグ↓