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ワインで読み解く南アフリカの近現代史。ロングリッジ 「エミリー」を飲んでみた。【Longridge Emily】

ロングリッジ 「エミリー」とエミリー・ホブハウス

ロングリッジの「エミリー」を飲んだ。シャルドネピノ・ノワールブレンドした白ワイン、っていうちょっと珍しいやつ。シャルドネは樽を使わず醸造ピノ・ノワールは少しだけ樽熟成し、それをブレンドするそうです。いずれも全房のまま天然発酵。畑はバイオダイナミック(ビオディナミ)。

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ロングリッジ「エミリー」を飲みました

そして商品名の「エミリー」は、エミリー・ホブハウスという女性に由来するのだそうだ。エミリー・ホブハウスは第二次ボーア戦争で活躍した人物。で、あれ、ボーア戦争ってどんな戦争だったっけ?

 

ケープ植民地と南アフリカの歴史

考えてみると、私は南アフリカワインをうまいうまいと飲んでいるわりに南アフリカの歴史についてまるで理解できていない。

というわけで、ここらで南アフリカの歴史についてざっくりと学んでおかねばならぬの心で、ほぼ寝て過ごした高校の世界史の授業以来、ひさかたぶりにボーア戦争について調べてみることにした。

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ボーア戦争とは、イギリスと、オランダ系移民、フランスのユグノー、ドイツ系プロテスタントらの子孫であるボーア人アフリカーナー)との間の戦争だ。では、なぜイギリスとオランダ移民が南アフリカで戦争をしているのか? 話は17世紀にさかのぼる。

南アフリカの現代に連なる歴史は、1652年にオランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックが希望峰を中継基地とし、植民地化したことに端を発する。2月2日は「南アフリカワインの日」とされるが、それはこのリーベックが1959年2月2日の日記に「ケープのブドウから初めてのワインが作られた」と記している(Today,Praise be to  God, wine was made for the first time from Cape grape)ことから。

Capeとは岬のことで、言わずもがな、南アフリカといえばの「希望峰」に由来して、南アフリカワインは「ケープワイン」とも呼ばれている。

余談だが、希望峰がどことの中継地かといえば、オランダとインドネシア、そして長崎の出島との中継地。日本ともあながち無関係でないのが歴史の面白い点。リーベックは1655年にブドウ栽培を開始。1659年に南アフリカ最初のワインが産声を挙げている。

ボーア戦争に連なる歴史に話を戻そう。17世紀以降、南アフリカ(ケープ植民地)はオランダ東インド会社のものとなり、それがやがてイギリスの植民地になるに至る過程はわりと複雑だ。時計の針は17世紀初頭へと巻き戻る。

 

オランダ領だったケープ植民地がイギリス領になるまで

17世紀、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は、オランダ東インド会社を通じて世界中に植民地を抱え“オランダ海上帝国”と呼ばれる黄金時代を迎えていた。それは、同じく海上の覇権を狙うイギリス東インド会社との争いを生んでもいた。

そして迎えた1623年、アンボイナ事件が起こる。香辛料貿易を巡って対立していたイギリス東インド会社の商館をオランダ東インド会社が襲撃し、商館員を全員殺害したという事件。またも余談だがこの事件にも日本人(平戸の傭兵・七蔵)が絡んでいるので興味ある方は「アンボイナ事件」で検索してみてください。

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この事件をきっかけにイギリス勢力を駆逐したことで、オランダはアジアの富を独占。一方のイギリスでは反オランダ感情が高まることとなる。結果、1652年、リーベックが南アフリカを植民地化したのと同じ年からイギリスはイギリス海峡でのオランダ船団への襲撃を開始し、英蘭戦争が勃発。17世紀後半にかけて4度にわたった英蘭戦争の結果、オランダの国力は衰退することになる。

その後、フランス革命に伴いオランダはフランスに占領され、フランスの傀儡国家であるバタヴィア共和国、ホラント王国が相次いで樹立、1810年にはフランス帝国の直轄領となる。要するに、一時的にオランダはフランスに占領される。そしてこの間、ケープ植民地も一瞬バタヴィア共和国領となった。

この混乱のなかで、オランダ東インド会社は解散。結果、ケープ植民地を含むオランダの植民地は敵の敵は味方的理屈でオランダとともにフランスに対抗していたイギリス東インド会社が引き継ぐことになる。そして以降、1910年に今の南アフリカ共和国の前身である南アフリカ連邦が発足するまで、南アフリカの地はイギリスの支配下におかれることになるわけだ。

つまり、ウルトラざっくり言うと、もともとオランダのものだった(17世紀)のが、ほんの一瞬フランスのものになり、のちにイギリスのものになった(19世紀)というのが南アの歴史だ。

 

アフリカーナーボーア戦争

さて、もともとオランダ人の子孫が住んでいた土地がイギリスの植民地となり、大量の入植者がやってきて、公用語が英語となると、英語を解さないボーア人(おさらい→オランダ系移民、フランスのユグノー、ドイツ系プロテスタントらの子孫)は二等国民として差別されるようになる(この過程で、ボーア人は自らをアフリカーナーと呼ぶようになった)。

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そして、彼らはイギリスの支配を逃れて、南アフリカ北東部の奥地へと「グレート・トレック」と呼ばれる大移動を開始し、ナタール共和国トランスヴァール共和国オレンジ自由国といった“ボーア諸共和国”を建国。これらの諸国とイギリスが戦ったのが2度にわたるボーア戦争というわけだ。

完全なる余談だが第一次ボーア戦争ボーア人司令官はポール・クルーガーという人物で、なんというかすごく南アフリカワインファンの耳に馴染む名前です。

 

ボーア戦争終了後の収容所の状況とエミリー・ホブハウス

さて、ボーア戦争自体は1902年に終結するが、悲劇はつづく。イギリスは12万人のボーア人と先住民黒人を強制収容所に入れるが、その環境は劣悪そのもので、実にそのうちの2万人以上が死亡したとされる。ボーア戦争wikipediaページには収容所で死を迎える直前の少女の写真が掲載されているのだが、女の子の父親としては直視できないレベル。

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話が遠回りに遠回りを続けたが、この収容所にやってきたのがイギリス人女性、エミリー・ホブハウスだった。イギリスの軍事行動の結果貧困に陥った女性たちの存在を知ったエミリーは、基金を設立してケープ植民地に出発。

エミリーは、現地で見た1日に50人の子どもが亡くなっていくという収容所の現状を「殺人」だと断罪。自国の政府やメディアから批判されながらも支援の資金を獲得するなどしてボーア人女性とその子どもたちの救済のために活動を続けることになる。

それらの人道的活動が認められ、後にエミリーは南アフリカの名誉市民となり、町の名前となったり、潜水艦の名前になったり、切手になったり、映画化されたり、そして忘れちゃいけないロングリッジの「エミリー」として、ワインの名前にもなっている。

というわけで、エミリー・ホブハウスについて調べようと思ったらなぜか南アフリカの近代史をざっくり学ぶ事態になってしまったが、今までよくわかっていなかった南ア史がちょっとだけ理解できたような気がする。安心したのでいざ、ワインを飲もう。

 

ロングリッジ「エミリー」を飲んでみた

グラスに注いでみると、シャルドネピノ・ノワールを混ぜたとあるのでロゼっぽくなるのかと思いきや、アンバーワインとかヴァン・グリとかそんな感じのオレンジ感のある色合い。

でもって飲んでみると味は樽の効いたシャルドネと、スッキリしたロゼのちょうど中間地点にあるような味わい。その出自から、どことなく泡のないシャンパーニュ的な味わいがするような気がしなくもないような気がする。そして、味わいのなかにはたしかな芯がある。

白のなかに赤がある。それは、ボーア人のなかのイギリス人とか、強制収容所におけるイギリス人女性とか、世間に批判されながらも己の意思を貫いたエミリー・ホブハウスという人物そのものであるようにも思える。

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vivinoの評価も4.0と高い。非常においしいです。

毎度毎度のことながら、1本のワインの背景にはちょっとビックリするくらいのドラマが潜んでいる。そのドラマを読み解きながら飲むワインは、ただの液体の域をはるかに超えてくる。ロングリッジのエミリーは、ショップによっては1000円台で買える安ワインだが、そこに込められた物語は決して安っぽいものではない。というわけで今夜はエミリー・ホブハウスに乾杯だ。